(下北沢ザ・スズナリ )
この芝居を観たあと何を書こうか考えているうちに身内で大きな出来事があって、感想を書くのが2週間も遅れてしまった。申し訳ないけれど、芝居のことはそんなに覚えていない。
17歳の犯罪は最近何かと取り上げられていて、少年犯罪に関する法律が改正されたりしている。こんな時にわざわざ少年犯罪を扱う芝居をやるからには、その裏に何かの思想やメッセージが隠されているんだろうと思うのが自然だ。しかしながら僕には、そのメッセージなり思想なりを汲み取ることはできなかった。「彼らの行為には理由なんてないんだ」ということを言いたいのだろうか?
少年犯罪にしろ、精神障害による犯罪にしろ、僕はその犯人を厳しく罰するべきだと思っている。彼らを犯罪者とせずにおくことにどんなメリットがあるのか理解できない。犯罪に対する責任を誰かが負わなければならないとしたら、それは被害者やその家族ではなく、どんな場合でもその加害者側であるべきだと、僕はそう考えるのだ。
ホームページの解説を読む限りでは、詩森さんは「そんなに単純じゃないんだ」とお怒りになるかもしれない。ごめんなさい。僕にはその複雑ささえも理解できていないのです。
今回の舞台はこじんまりと、きれいにまとまっている印象を受けた。「こいつが下手」とか、「ここがつまらん」という部分は無いのだけれど、迫り来る情念のようなものが残念ながら感じられなかった。それが芝居のせいなのか、僕自身の感受性が鈍っているせいなのかはわからないのだけれど。
(西荻窪WENZスタジオ)
半陰陽である。
劇場で渡されたプログラムに詩森さんが書いている。
仲の良い男の子同士を「オホモダチ」だ、と言って笑ったことはありますか。 「オカマ」という言葉をギャグの一種と信じて笑ったことはありませんか。 (中略) 無知だったのです。 アンケートの性別の欄に「男・女」としか書いていないことに、 流行歌が「どうせこの世は男と女」と歌うときに この世界のどこかで誰かがひっそりと傷ついているということを わたしたちは知らない。
この文章を読みながら、半陰陽について何ひとつ知らない僕が感想なんて書けるだろうか?
でも、書く。
半陰陽である。性器では男女の区別が付けられない人のことらしい。ヒラリー・スワンクとは訳が違う。
僕はこういう話題が嫌いだ。中間的な性の問題を語るのが嫌いなのだ。それには自分なりの理由があるのだけれど、正直に書くのはちょっと照れくさい。
思春期、僕は自分の中に女性的な因子が存在していることに気づき、ひどく悩んだことがある。まず、胸が膨らみはじめた。声変わりも遅く、しかも弱かった。体毛がやけに少なかった。争い事が嫌いだった(攻撃性は男性因子の結果の一つだと今でも信じている)。自分の性染色体がXXである可能性を考えてぞっとした。思春期の少年の想像と恐怖は果てしなく広がる。自分には陰茎が間違いなくあるが、体の中には子宮もあるのではないかと疑った。もしそうなら自慰するだけで妊娠してしまうかもしれない…。
現実にはそんな事は起きなかったし、いつの間にか恐怖も消えていた。脛は毛だらけになったし、胸よりも腹が出てきた。今では、女性に対する性的な欲求の強さを思うと、自分の中に女性因子があると想像することさえ難しい。
僕の場合は思春期の一時的な迷いで済んだけれど、それを一生抱えて生きるのはいかにも辛そうだ。
ゲイについては強いタブーを感じる。聞くだけで嫌な気持ちになる。それがある種の心理的な予防線であることは、薄々感づいてはいる。そのタブーをきちんと考え直したとき、自分がどっち側にいるのかに自信が持てないからなのだ。『アメリカン・ビューティ』のように。
芝居は、セリフがところどころ浮いていたのが残念。人数が多くなると、詩森ワールドを浸透させるのが難しくなるのかしらん。鉄村夏芽さん(伽耶)は熱演。松岡容子さん(律子)も味のある演技。(あるいは地か?) 斎藤真吾さん(舵)はしんみりとした雰囲気が良かった。
ところで、そろそろ他の芝居のことも書かないと、風琴工房の感想専用ページみたいになってきたな。
(T.Y.Harbor Theatre)
15ヶ月ぶりにお芝居を見た。
すっかり芝居の見方を忘れてしまったようで、アンケートの感想さえ満足に書けなかったけれど、薄暗い空間と怪しげな音楽がなんつうか懐かしかった。
さて、感想。昼間に「アンナと王様」を観た後のこの芝居。「奴隷」漬けの一日。
結婚して間もない詩森さんにこんなテーマで芝居を書かれちゃ、旦那さんは辛いだろうな。よほどできた人なのか、こんな類のことも自由に語り合えるような素敵な夫婦なのかもしれない。
僕らはダメだ。そこまでつっこんで話し合ったりはできない。だから僕にはフエが必要になるのだろう。映画「秘密」で小林薫に共感したことと関係ありか?
(門仲天井ホール)